なぜ『The Last of Us』はただのゲームではないのか
※【注意】この記事では18歳以上を対象とした作品について取り扱っています 。
また、基本的に『The Last of Us』のネタバレしかありません。
ゾンビが脇役
このゲームはいわゆるゾンビサバイバルゲームです。要するにバイオハザードです。 なのにゾンビは脇役です。むしろ人間のほうがずっと恐ろしいのです。
ゾンビである"感染者"は種類がたった3つしかなく、特に終盤になってジョエルの装備が揃ってくると大した脅威にはなりません。 実際に「感染者は動きが読めるから脅威にはならない」というセリフも劇中にあります。NPCであるエリーも対処法を徐々に身につけてくれるため、かなり心強くなります。
それに対して人間は集団での連携、仲間の死体の視覚感知、銃火器による遠距離攻撃、弾切れの隙を見計らうなど様々なアビリティを持っており、ジョエルがどれだけ武装していても基本的に見つかれば死にます。 実際レベルデザイン的にも、感染者との最後の戦いの後に、ファイアフライとの決戦を置いています。
しかし、最も恐ろしいのは怒り狂った主人公ジョエルです。 特に"WINTER"の途中にある拷問シーンは無慈悲過ぎて吹き出してしまいました。お腹に穴が開いているはずなのですが敵を滅多打ちにする姿は、娘を殺され復讐を誓った一児の父そのものです。 敵がジョエルに対して「あの狂った男に何人も殺された」と語ったりします。完全なるダークヒーローです。
アクションゲームとしては未知の生物・凶悪な敵をゲーム進行に沿って順番に配置していくのがお約束ですが、このゲームはその文法をある程度崩してシナリオや演出を優先しています。 (もちろん、最強の感染者であるブローターは中盤以降の要所でしか出現しないなど、基本的にはゲームっぽい配置になっています)
映画的演出とゲーム的演出のさじ加減
本作品は、ムービーによるデモシーンの映画的演出と、プレイアブルなゲーム演出、そのバランスがかなり特徴的です。
その最たる例が、最終ステージである ソルトレイクシティの病院 です。
ファイアフライ助けられた後、ジョエルが反抗をはじめる最初の拷問シーンはムービーとなっています。 プレイヤーの意思を問わずジョエルが勝手に騒ぎを初め、物語の最終決戦である病院内の銃撃戦パートに進みます。 ここまでは普通だと思います。
激しい戦闘を抜けたその先、手術室で無抵抗の医師と対峙したシーンで引き金を引くのはプレイヤーに委ねられます。特に 「抵抗できない人間を一方的に撃たなければならない」 という場面は劇中ほぼ無いので、かなり気が滅入ります。 (一応「ひと思いにやってくれ」と言う序盤のチュートリアル的な役割のキャラがいます)
更に驚きなのが病院脱出後、駐車場のマーリーンと対峙するシーンは全編ムービーで、怒り狂ったジョエルが無慈悲に決着を付けます。 ふつうのゲームならここで巨大な最強ゾンビが襲い掛かってきて勇敢な音楽が流れる戦闘シーンに移ったりするところですが、このゲームの最後の敵は1人の人間、それも決着はムービーで終わります。 派手なラストバトルだったりは一切なし。 プレイヤーの介入する余地がなく、ここは完全に観るだけの映画的演出です。
- ジョエルが最初に拷問するシーンはムービー
- 手術室で医師に引き金を引くシーンはプレイアブル
- マーリーンと対峙するシーンはムービー(しかも回想)
主人公ジョエルの非情さはムービーシーンで際立てつつ、重要なファクターにプレイアブルシーンを挟むことで、プレイヤーをジョエルの立場に引きずり込んで行きます。 映画的要素とゲーム的要素をうまく混ぜて 「遊べる映画」 に仕立て上げています。
つまりラスボスを最後に倒す敵と定義づけるならば、このゲームのラスボスは 何の抵抗もできない医師 です。最も弱いターゲットをシナリオの一番最後に置いています。 彼を殺すことで世界を救う方法を奪い、ジョエルを悪に堕とすこと、その最後の壁をプレイヤー自身が乗り越えることがラスボス戦なのです。
プレイ時は「メタルギアソリッド3でもラストに似たような演出あったな」と思ったのですが、あれは最強の敵であり最愛の人に対してトドメを刺すシーンなので、最愛の人を守るため最弱の敵を殺すラストオブアスとは正反対です。
そして物語上最後の敵であるマーリーンとの戦闘はカットして先にエンディング突入。顛末は回想で語られます。 このセンスはすごい。
他にも、ジョエルとエリーの絆の変化をあらわすような重要な会話パートがプレイアブルなシーンのまま進んだりする所はゲーム的と言えます。 例えばキリンを見たときの会話にデモシーンが用意されていませんが、これは自分の手で見つけた喜びを味わって欲しいというゲーム的な演出だと解釈しています。
その一方で、カットを効果的に使って間をプレイヤーの想像にまかせる手法は映画的です。具体的には季節の切り替わるシーンが挙げられます。 ラストの「誓ってよ」の打ち切り方もそうです。本筋は一本道の明快なストーリーでありながら要所要所を適切に省いており、特にエンディングの解釈は人によるところがあります。
長い旅路のすべてがプレイアブルではないのでダレることもない、かと言ってムービーだらけの見るゲーかと問われれば決してそうではない。このふたつのバランスがとても良いのです。 物語上とくに何も無い期間は一気にカットされるのですが、だからと言って残るゲームシーンは派手なドンパチやりまくるシーンばかりでもありません。 たまに敵の出ない何も無い道をただ歩くだけみたいなシーンもあって、それがまたすごく安心できて、プレイに緩急を与えています。この塩梅がすごい。
まとめ
ゲームとしての文法を守りつつも、中身は他のゲームとはまるで正反対、ただの映画や見るだけゲーとも違う、まさに「遊べる映画」を実現してしまったのが『The Last of Us』です。
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(下記と合わせて2016年を振り返る3記事としたかったのですが間に合いませんでした)